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一ノ瀬泰造
映画「地雷を踏んだらサヨウナラ」完成後に感じた中島多圭子の「本物」感。
1999年11月、私は佐賀県武雄市にいた。完成したばかりの「地雷を踏んだらサヨウナラ」という映画をもって。浅野忠信くんが演じた主人公“一ノ瀬泰造”のご両親に誰よりも先に観て頂きたかったのだ。しかしご両親ともにご高齢で、東京へはとてもいらっしゃれない。そして初めて観る時は、出来れば水入らずでご覧になりたいとのこと。ならば「映画をビデオに焼き付けて、一人で持っていきます」ということになった。残念なことに当日は、お父様は体調が芳しくなく、お会いすることは出来なかった。私は一ノ瀬家に到着するやいなや、早々にビデオカセットをデッキに入れる。お母様はテレビの正面に正座なさり、食い入るようにみつめたまま時間が経つにつれて、テレビのブラウン管に顔が近づいていく。その横顔を少し離れたところからぼんやり見ていた。そうしているうちに、無意識に自分の母親とその面影が重なってきた。そして背中が丸まり、小さくなった母親の姿を思い出し、「苦労かけちゃったよなぁ」とそんな私的な想いにかられてた。映画のローリングタイトルが終わった。気がつくと、お母様の眼鏡の奥に涙が溢れていた。そしてゆっくりとこちらに向き直り、深々と頭を下げられた。「久しぶりに泰造に会わせて頂きました。有難うございます。」胸がいっぱいになった。返す言葉がみつからない。「この映画を作らせてもらって本当に感謝しております」やっとそう言った。懐かしい心に久しぶりに再開した、そんな実感が込み上げてきた。もしここに泰造さんがいたら、何を言っただろう。「好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲しむことないよ、母さん」そう言った彼は、きっと照れ笑いを浮かべながら「苦労かけちゃったよな」とでも言うのだろうか。そんなようなことを思いながら、仏壇の泰造さんを振り返った。

それから1年以上経った2月19日、お父様、清二さんの訃報に接し、愕然とした。自分のなかで突き動かされるものがあった。どうしても残しておかなくてはいけないことがある。あの映画で語りきれていない大事な何かがある。あの日のお母様の横顔を想い出した。ひたすらアンコールワットに魅せられて散っていった一ノ瀬泰造。そしてその息子をひたすら信じ、彼の心を「永遠」という形にしようとする母親。またそれを支え続けた父親。魅せられること、信じることの尊厳と美しさ。このことだけは映画という形で残したい。すぐにでも一ノ瀬家に泊まり込んでお母様を撮りたい。しかし自分にとっては現実的なことではなかった。小さな会社の責任者として、映画界という地雷原をさまよっている自分の現状を顧みると不可能だ。その時ある一人の女性を思い出した。

中島多圭子さんとの出会いは、「地雷を踏んだらサヨウナラ」の公開直前に遡る。ある人から、一ノ瀬泰造の足跡を追って、写真を撮りながら旅をしている女性がいるということを聞いた。しかもそのきっかけは、この映画の製作発表の記事だったらしい。彼女は「やじうまワイド」という番組でMCとしてその記事を紹介し、その数ヶ月後に番組を降板、そしてアンコールワットへ旅立ったとのこと。「地雷を踏んだらサヨウナラ」を女性観客に観てもらいたいと思っていた自分は、すぐに本人に会ってみた。そして中島さんが一ノ瀬泰造の何に惹かれたのかを初めとして質問攻めにし、宣伝戦略の参考にさせて頂いた。その時に感じたこの人の「想いは本物」感が、この「TAIZO」の監督候補へと繋がるとは夢夢思ってもみなかった。

取り敢えずは電話。「忙しいですか? 時間はあります? 映画、撮ってみません? いや、冗談ではなく。いや、やっぱり冗談です。」その後、誘導尋問と洗脳を繰り返し、数ヵ月後には中島さんはVX2000というカメラ一台(使用説明書付)と共に武雄へカンボジアへと、そしてそれが2年以上続いてしまった。まさに「うまく撮れたら持って帰ります。地雷を踏んだらサヨウナラ!」状態だ。しかしあの時感じた「本物」感は間違っていなかった。中島さんは見事に「TAIZO」を仕上げてくれた。「生きることの意味」を図らずも完成させた一ノ瀬泰造。そしてそれを完成させようとしている母親、信子さん。それぞれの輝きを心地よく感じさせてくれる優しい映画になった。そして一ノ瀬泰造を行動へと駆り立てたものが何だったのかを正確に伝えてくれていると思う。こういう素晴らしい作品を作ることが出来たのは、あの時の中島さんの「悩み」こそが「本物」だったからだ。そんな気がする。